大山最古の近代砂防堰堤
金門狭堰堤は、大山における最も古い近代的な砂防堰堤として大正6年(1917)に建設されました。
しかし、いったい誰が作ったのかなど詳細な出自は判然としません。
もしかすると大山寺周辺の郷土資料に情報が残っているのかもしれませんが、少なくとも私はそこまで手が回りませんでした。
ですので基本的に現地での写真が中心の話となります。
その他、上流側にある謎の堰堤と賽の河原についても考察します。
金門下流方向から
兎にも角にも現地の様子をどうぞ。
まずは下流方面から。
あのー。
石ばっかりで堤体がぜんぜん写ってないんですけど。
ごっつい望遠なんて持ってねぇもん。
巨岩、奇岩だって見どころなんだからまぁ見てよ。
こちらは上ワタリから佐陀川を少し遡上するかんじで簡単に到達することが出来ます。
前庭工へは大きな高低差がありますし、また家サイズの岩が崩落していたりなど一目で危ないとわかりますのでまぁ程々に。
ちなみにこの上ワタリ、一般的には大山登山スタート地点の渡り廊下程度に思われているんじゃないでしょうか。
⇧思っていた
しかし、あくまで床固工ですから。
金門上流方面から
次、上流方面。
大神山神社奥宮参道の途中で金門へ向かう脇道があります。
立札が立っていますので従いましょう。
途中からだんだん薮が深くなってきますが、ある理由(後述)により比較的踏み固められた道がありますので、たぶん迷う事は無いでしょう。
沢に出てからは、天端はもう目と鼻の先。
ある理由(しつこい)から足の運びには細心の注意を要しますし、どちらにしても堤体に肉薄してからは一歩でも間違えると即死の高さです。
私が普段紹介している砂防堰堤なぞ所詮国交省がしっかり管理してくれている現役の物件。
ここには鉄柵もロープも仕切りも注意書きも何もありません。
本当に気を付けて歩きましょう。
それでは天端の様子をどうぞ。
引用
ここで、現地案内板と日野川河川事務所のあゆみから関連のありそうな部分を引用します。
金門と大山二羽鳥
應化身垂跡、釋迦両足尊
砂防事業の沿革
江戸時代には、鳥取藩の山奉行により水源山地の取り締まりや、土砂流出を防ぐための植栽が行われました。
大正6年(1917)には、金門狭堰堤が最初の近代的な砂防堰堤として造られ、昭和7年(1932)からは、日野川水系の砂防事業は鳥取県による農村匡救事業として施工されてきました。
しかし大山源頭部の崩壊は止まず、年々大量の土砂を下流に押し流すとともに、第二次世界大戦中の森林伐採による荒廃、連続して襲来した台風による災害などによって、山腹の新規崩壊や土砂流出の増大をもたらしてきました。
さらに、大山山麓の急速な開発により、新たな土砂流出も想定されることとなってきたため、従来の砂防区域を中上流部まで拡大し、日野川の改修計画と併せて一貫した砂防計画を策定し、昭和49年度より直轄砂防事業として実施することとなりました。
直轄区域は…云々
金門狭2号堰堤(仮)
一般的に金門狭堰堤と呼ばれる堤体については以上です。
しかし実はその更に上流にも怪しい堤体があるのです。
こういった土木構造物ならば、大山の沢を歩いていると極めて頻繁に目にしますので、気にせず通り過ぎてしまいそうなところですが…
切石の谷積み、石の質感、摩耗の程度などが先ほど足もとにあった金門狭堰堤と見れば見るほど瓜二つなのです。
もし同じ時期、同じような場所に二つの堰堤を建設するのであれば、考えられる可能性はそう多くありません。
まずひとつ目は上流側が本ダム、下流側が副ダムである可能性。
大山屈指の撮影スポットである名勝の堤体が副ダムであった…という解釈は衝撃的かつ魅力的ではあるのですが、距離が200㍍もありますし金門の方は水を溜めることが出来るほど気密性が高いとも思えません。
故に却下します。
もう一つは、もともと一連の床固群として建設された2号堰堤であるという可能性。
これですな。
九分九厘間違いないでしょう。
残り九割一厘はど(モガモガ)
だまらっしゃい!
それでは次。
金門上流あたりを歩くのに注意が必要な